関東地方、とある山間部。
山へ猟に入っていた一人の男が、不気味な物音を聞いたのは昼過ぎのことだった。
バキバキと木がへし折られる音の中に、何か硬いものを擦り合わせたような乾いた音。それが、木々の向こうから少しずつ近付いてくる。不審に思った男は、猟銃を構え、その場に片膝を立てた。
そして、男は見た。
それは、巨大な虫だった。巨大と言っても、半端な大きさではない。太陽の光を微かに受けて光る赤茶色の体に、六角形を敷き詰めた昆虫独特の黒い目が、大小あわせて8つ。蜘蛛のような口からは、獣と見紛う程の鋭い牙が生えていた。異様に長い6本の脚と、ハンミョウのように肥大化した腹が伸びる背中からは、鳥のように筋肉の通った4枚の羽根。
その巨体は、頭から腹の先まで軽く3メートルを数えるほどだ。
怯える男に近付きながら、虫が鳴いた。シャアアアと、紙と紙を擦り合わせたかのような声。さっき聞こえた音と同じだった。
虫が、跳んだ。
恐怖で我を忘れた男は、わめきながら銃を構えた。
だが、その銃声が轟く事はなかった。

日本中が、未曾有の恐怖に遭遇するのは、その数週間後の事だ。

東京に程近い、とあるベッドタウン。
立ち並ぶ高層マンション群の比較的高い階の一室で、朝のニュースを伝えるアナウンサーの声が、休日をゆっくり過ごそうとしていた少女の耳を独占していた。
『・・・では、次のニュースです。2週間前、長野の山間で発見された謎の巨大昆虫は、徐々にその数を増やし、現在も南下を続けており、政府は自衛隊を現地に派遣し、周辺住民の避難を進めるとともに、巨大昆虫の進出を阻止するため、・・・』
パジャマのままソファーに腰掛け、それを聞いているのは15歳の中学生、遠瀬茜(とおせあかね)。名前の通り、肩の辺りまで伸ばした茜色の髪と、眠たそうに垂れた目が印象的だ。

「もうそろそろこの辺も危ないかなぁ・・・」
茜は、ベランダから見える高層ビル群に目をやった。

突如出現した謎の巨大昆虫の情報は、一瞬で日本中に広まった。最初に発見された場所の近くに猟師の惨殺体が確認されたことから人を襲う危険があると判断され、直ちに自衛隊を中心とした対策本部が設置された。しかし、尋常ではない繁殖能力を有していた虫は、いや、初めからそれだけの数がいたのか、最初の発見からわずか数週間で、確認された個体数は3000を超えていた。しかも、その全てが、何かに導かれるように南下を始め、その予想進路に東京の名前があった。昆虫の専門家は、迫る冬に備え暖かい地方へと渡る、俗に言う「大移動」だと推測した。
さらにたちの悪いことに、虫は、雑食であることが判明。森林の植物、家畜を食い荒らし、確実に数を増やしながら大移動を続けているのだ。時々、人が襲われ喰われたというニュースも飛び込んでくる。あまりの巨体に長時間飛行することができないため、移動スピードが極めて遅いというのがせめてもの救いだった。
その凶暴な性質から、虫は「虫獣」と呼称されることとなったが、これは政府や自衛隊関係者などの識別用語として用いられており、市民の間では、単に「虫」という呼び方が定着していた。
それでも心配性の者は、既に都心を離れ、九州や、虫の進出できない
北海道へと避難し始めていた。彼女の友人も、何人か家を捨て。

「あーあ、早く退治してくれないかな」
ニュースを見ながら、茜は大きく背伸びをした。もちろん、彼女の家庭も楽観主義ではない。来月には東京を離れる目処は立ったし、行くアテも確保している。
今、彼女の両親は揃って海外に赴任しており、今月末に帰ってくる予定なのだ。そして、その後すぐに父の実家である北海道へと渡るのだ。だからそれまでに、荷物は纏めておかなければならない。茜は、ここ最近の休日を、全て荷作りに充てるという女子中学生の労働基準法を越えた作業を強いられていた。二の腕の筋肉が最近気になる。
「んじゃ、今日もやりますかな」
やる気に欠けた独り言を漏らすと、彼女はとりあえず着替えるべく自分の部屋へと戻っていった。

しかし翌日。それは、あまりに唐突にやってきた。
早朝、彼女はうるさく連呼するドアを叩く音とチャイムに目を覚ました。
精一杯の恨めしい顔でドアを開けた彼女の前に、息を切らした隣人の姿があった。両親が不在の茜になにかと世話を焼いてくれた大学生だ。
「真にいさん?どーしたんですか、こんな朝早くに」
「そんなことを言っている場合じゃない。早く逃げるんだ!やつら・・・もうすぐそこまで来ている!」
「え?・・・何が?」
あまりの勢いに目が覚めた茜が、目をこする手を止めた。
「虫が・・・虫が来てるんだ!」

『東京に巨大昆虫出現』
『人喰い虫、首都を襲う』

その日のメディアを騒がせたトップ記事が語る通りの光景が、地上に降りた茜の眼前に広がっていた。
逃げ惑う人々。車で埋まり大混乱に陥った道路。そして、その奥の視線の先に微かに覗く、うごめく赤茶色の群れ。それは、すでに脚の動きが肉眼で分かるほどにまで接近していた。
「そんな・・・どうして・・・。っ!?真にいさん!?真にいさんっ!」
気がつくと、彼の姿がなかった。濁流のごとき人の流れで、はぐれてしまったのだ。
「うそ・・・ど、どうしよう」
彼女は、必至に冷静を保とうとした。しかし、場の空気がそれを許さなかった。普段から集中力には自信があったろう、と言い聞かせたが、無駄だった。ただ、この場を離れなくては、という動物的な自己防衛本能のみが、彼女の体を支配していた。
彼女は、その本能の命ずるままに、人の流れに乗って走り出した。
後ろからは、絶え間ない悲鳴と怒声に混じって、ガシャン、バキッと、明らかに人の芸当ではない破壊の音が響く。考えるまでもなかった。虫が、車や障害物を蹴散らしながら向かってきているのだ。そう、自分たちめがけて。
だめだと分かっていても、振り返らずにはいられなかった。しかし、見えるのは無我夢中で走り来る人の姿ばかりで、その後方にいるであろう恐怖の根源を確認することはできない。姿の見えない恐怖。しかしそれは確実に自分たちとの距離を詰めてくる。
そして、ついに自分のすぐ後ろから、逃げ惑う悲鳴とは明らかに声色の違う、断末魔の悲鳴が聞こえ始めた。ぞっとするような、男か女かも分からないような、絶望に満ちた声。それと同時に、鼓膜が破れそうなほどの悲鳴が、その周囲から沸き起こる。想像せずとも、それだけで分かる。
喰い始めた。
虫が、人を喰い始めた。
自分の、すぐ後ろで。

正常な意思など保てるはずがなかった。
壊れる。このままでは、壊れてしまう。
おそらく今、自分も悲鳴を上げているのだろう。だが、それすらも分からない。
周りに人は大勢いる。しかし、誰も助けられない。助けてくれない。


死ぬ?


こんなところで?虫に食べられて?
嫌だ。嫌だ、いやだ、イヤダ、いヤだ、いやダ


そして、彼女は気を失った。

                             続く