・・・あれ?私、どうしたんだろ・・・
気がつくと、体が宙に浮いていた。まだ焦点の合わない眼下に、逃げ惑う人々と、迫る赤茶色の虫の群れ。
・・・私、さっきまであそこにいたはずなのに・・・
そして、自分の体が後ろから何者かに抱き抱えられていることに気付いた。
・・・そうか、私、虫に食べられたんだ。きっと・・・死んだんだ。それで今、天使に抱かれて、天国に向かってるんだ・・・
ようやく機能を回復した目で捉える地上の地獄絵図が、遠い過去の出来事のように感じられる。
・・・すごいな・・・死んだら本当に天使に連れられるんだ・・・
その時、彼女を抱いた『天使』が、意識を取り戻した彼女に気付いた。
「やっとお目覚め?何やってんのよ、輝士(きし)のくせにヴァンド(あいつら)に追われて気絶だなんて」
『天使』の言葉遣いは乱暴だったが、声は少女のそれだった。
・・・天使って、こんなに馴れ馴れしく話しかけてくるもんなんだ。知らなかった。明日皆に自慢しちゃおう、って、私、死んじゃったんだっけ・・・
「ねえ、聞いてるの?レイリア」
・・・レイリア?誰?私?
その時、目の前に迫った歩道橋を避けるために急上昇した衝撃で、彼女の、茜の意識は完全に戻った。
「え?何?何?私、死んでないの?・・・え、ちょ、天使・・・さん!?」
思わず自分を抱いて飛ぶ『天使』の方を振り返った彼女は、さらに驚きと困惑の色を深めた。『天使』が、どこかの私立校を思わせる制服に身を包んでいたからだ。そして、背中には4枚の白い羽。
「何を訳分からないこと言ってんのよ、レイリア。目が覚めたんなら自分で飛んでよね」
「え!?と、飛ぶ!?私が!?てかあなた誰っっ!?天使なのっ!?」
「はあ!?・・・あのねえ!こんな状況でそんな冗談言われても面白くないのよっ!」
「いや、冗談、とか、そんなんじゃ、なく、て・・・」
「ちょ、レイリア・・・?」
茜のおろおろと引きつった顔を見た『天使』が、信じられない、といった顔をした。そして、地面に対して垂直に飛び上がると、どこかのビルの屋上で茜を降ろした。
「レイリア・・・どういうことなの?」
今さっきまで自分を抱き抱えてきた、自分と同じくらいの背格好の少女が、真剣な表情で茜を見据えた。
綺麗に切り揃えられた少し紫がかった長髪が風に舞う。青とも緑ともとれる色合いのブレザーに身を包み、そして背中には・・・羽。
「いや、どういうことなの?とか言われても、むしろこっちが聞きたいぐらいで・・・て言うか、私、レイリアなんて名前じゃないし」
いやむしろ、それよりも聞きたいというか、もう関わりたくないと言うか、その他数点の疑問があるが、それを言う前に、少女が制するように強い口調で言った。
「遠瀬茜、『とでも言いたい』の?」
「はえ!?」
どういうわけか自分の名前を知る少女の言葉に、茜は文字では表記しにくい奇声を発した。
「なんて声出してんのよ。・・・・・・まさか、マジ、じゃないわよね??」
少女は、組んだ両腕を解くと確かめるように一歩茜に近付いた。
「いや、マジも何も・・・あはは、何の事だかさっぱりなんですけど」
それに合わせて一歩下がる茜。
「ちょ・・・うそでしょ・・・」
そう言って少女は、額に手を当てると、不味い物を含んだような顔で俯いてしまった。
「あ、あの・・・」
茜がそう言いかけた刹那、彼女の背後から突如風が吹き荒れた。
振り返ると、そこには虫がいた。虫は、長距離の飛行こそできないものの、こうして高い所へと飛び上がる程度の力は持っているのだ。
「きゃああああっ!」
先程の恐怖が蘇り、悲鳴を上げる茜。その眼前に、天使の少女が躍り出た。
「退がって!」
そう叫ぶと同時に、彼女の両手首にはめられた銀のブレスレットのようなものが光を放ち、次の瞬間には2本の剣を出現させていた。
「何・・・魔法?」
右手で影を作りその光景を見た茜が驚愕の声をもらす。
少女は素早くその剣を掴み取ると、大きく飛び上がり、虫に向かって斬りかかった。
「はああああああっ!!」
ギン、という鈍い音とともに虫は頭を割られ、ビルの下へと転落していった。
「な、何・・・何なのよ・・・」
まったく事態が飲み込めない茜に、両手に剣を携えた少女が向き直った。
「さっきのアンタの悲鳴からして、本当に忘れちゃってるのね」
「だ、だから何を・・・」
「とにかく、一度戻るわよ。もうここは、あいつらに嗅ぎつかれた」
少女が振り返った。その言葉を裏付けるように、今度は3匹の虫が一斉に現れた。
「飛び方も忘れてるんだよね・・・しょうがない!」
少女がそう言うと同時に、再びブレスレットが光った。それと同じ色に光った両手の剣が、それに吸い込まれるように消えていった。
そして、茜を抱き抱えると、羽を広げ、屋上から飛び立った。
「ちょ、どこに行くんですかーー!?」
「黙ってなさい!ただでさえアンタ重いんだから気ぃ散らさないでよ!」
「おも・・・っ!」
気にしていたことを指摘された茜は、火が消えたようにおとなしくなってしまった。

どれほど飛んだのか、茜を抱いた少女は、工場地帯のある倉庫にまでやってきた。
「ふう、重かった」
「重いって言わないでっ!」
茜がつれてこられた倉庫は、相当古いものらしく、所々天井に穴が開いていた。
「おお、戻ったか。どうだ、レイリアは見つかった・・・ようだな」
倉庫の奥から聞こえる声に茜が振り返ると、一人の中年の男が煙草をふかしながら現れた。
「ええ、ザイラさん。・・・ただ、ちょっと問題が・・・」
「問題?」
ザイラと呼ばれた男は、煙草を口から離すと、目を丸くした。

「・・・そうか、記憶がねぇ・・・」
「驚いたよ。会っていきなり『あなた、天使?』だからな」
「天使か。そりゃ傑作だな」
そう言ってザイラは大声で笑った。
「笑い事じゃないでしょ。どーすんのよ、レイリアのこと」
使い古された椅子に腰掛け、不機嫌そうに右手を頬に支える少女。
「ふむ・・・『力』に関しては記憶と関係ないから、戦力にはなるさ。あとは・・・教え込む、しかないだろ」
「・・・マジで?」
「マジで」
少女が、ちらー・・・と茜に流し目をよこした。
「え、えと・・・」
戸惑いを隠せず、作り笑いしてみせる茜。
「・・・はぁ〜っ、ま、しょーがない、か。それで私たちの事思い出してくれるなら安いものか」
その言葉と同時に、ザイラが茜に近付くと、小さな袋を差し出した。
「はい、これが君の分ね。『こっち』にきたらすぐ僕の所に取りに来る手筈だったんだけど、これはある意味ラッキーだよね」
「あのー、まだ事情が全く分かってないんですけど・・・」
そう言いながら渡された袋に手を入れると、そこには先程少女が見せたものと同じブレスレットがあった。
「え、コレ・・・」
「はめてみて」
優しく誘うザイラに言われるまま、茜はブレスレットに手を通した。それを見た少女とザイラの顔に、驚きの表情が走った。
「・・・入っちゃった・・・」
「え?え?」
「ふう、これでも何も思い出せないか」
ザイラがくしゃくしゃと自分の髪を掻き毟る。
「じゃ、今から説明するけど、非現実的だー、とか言わないように。いいね?」
「は、はい・・・」
おののく茜に、いきなり真剣な表情になったザイラが向き直った。
「まず、僕らはこの世界の人間じゃない」
「・・・はい?」
「や、だから黙ってって。で、今この国を騒がせているヴァンド・・・この国の人が虫って呼んでるあれも、もとは僕たちの世界にいた生き物だ。それが最近になって、どういうわけかこの世界に入り込んでいる。どうやら僕たちの世界で、誰かが術を使ってこの世界への回廊を開いたらしい。で、その被害を抑え、ヴァンド撃滅のためにこの世界に派遣されたのが僕たちって訳」
「・・・」
「僕たちの世界では、遺伝的に素質のある種族は『気』を、媒体を通して具現化する力がある。その媒体が、君や彼女が手にはめているソレね。『輝器』って呼ぶんだけど、それに気を注ぎ込んで、その代償として、気に代わる力を具現化させる」
「あ、さっきあの人、剣を出してました」
「あ、もう見たんだ。まさにそれだね。で、輝器を使ってヴァンドを退治できる力を持つものを輝士って呼ぶんだ。彼女と・・・君も、その一人だよ」
「え・・・?」
「当初の予定ではこの世界に3人一緒に渡ってきて、ヴァンドが人目に触れる前に撃滅する予定だったんだけど、何故か3人とも違う場所に降りてしまってね。僕と彼女はすぐに合流できたんだけど、あと一人、君がなかなか姿を現さなかった。そうしている間にヴァンドは増えちゃって、やっと君を見つけたと思ったら記憶喪失。ちゃんちゃん♪」
そういって、ザイラは両手を挙げて「お手上げ」のポーズをした。
「え・・・でも私、今まで15年間ずっと遠瀬茜として生きてきたんです。そんな記憶、あるはずがありません!」
衝撃の事実を告げられた茜が、絶対の証明をぶつける。 だが、それを軽く受け流すと、ザイラは小さく首を横に振った。
「僕たちは肉体ごとこの世界に来るんじゃない。ヴァンドと違って、気質量の大きい人間は、気だけをこの世界に転送する。そして宿主を定め、その人の記憶、経験、性格を全て生かしたままの状態で輝士の能力と意思を定着させる。変な言い方だけど、一時的に体を借りてる状態かな」
「じゃ、じゃあ、私に入ろうとした人の気は・・・」
「そう、それがどういうわけか覚醒しないんだよね。だから『僕たちが待っていた茜』はまだ現れていないんだ。だから・・・」
「・・・?」
「少々酷な事だが、君には、『そのままの茜』として戦ってもらわなければならない」
「そ、そんな・・・っ!」
「無理強いだということは承知している。だが、ヴァンドにはこの世界の武器はほとんど効果がない。メディアは自衛隊の活躍を報じてはいるが、あれも単なる情報操作に過ぎない。『自衛隊の武器も歯が立ちませんでした』では国中が大混乱だからね」
「そんな・・・む、無理です」
また、あの時の恐怖と断末魔が頭の中で蘇る。
「でも、僕たちが戦わないと、どの道この国は全滅しちゃうよ?と言うか、もう首都は攻められてる訳だし・・・」
「あ、あなたたちの世界は!?その世界からの回廊を何とかすれば、虫はもう増えないんじゃないの?」
「なんとかなってるなら僕たちがわざわざこの世界に来たりなんかしないよ」
「・・・っ」
ザイラの悲しげな表情に、茜は言葉を続けることができなかった。あの虫がこの世界にまであふれてきたということは、向こうの世界ではもっと悲惨な状況になっているということは、簡単に想像がつく。
「・・・」
茜は、輝器に通した自分の両腕を見つめた。
・・・そうだ、真にいさん。無事・・・だよね・・・
茜の脳裏に、親しい隣人の顔が浮かんだ。そして、級友たちも・・・
「・・・わかりました。やります」
茜が、決意に満ちた顔を上げた。
「そうか。・・・すまないね。今回の仕事が終わったらレイリアにきつく言っとくよ。寝坊も大概にしろ、ってね。あ、ちなみに僕の名前はザイランスキー・ソル・レアスティング。で、この世界では来駕励(らいがれい)って名前らしい。他の人がいるとき意外はザイラって呼んでくれ」
そういって、ザイラは小さく笑って片目を瞑った。
「じゃ、後の説明はよろしく。風羅(ふうら)ちゃん」
そう言われ、少女が気だるそうに立ち上がった。
「じゃ、まずは自己紹介からか・・・はぁ〜」
まだ何か納得がいかないのか、どこか生気に欠けている。
「リノアリス・コル・リューフィンス。それが私の名前。まあ、今はあんまり関係ないから覚えなくてもいいよ。アンタからはリノアって呼ばれてたんだけどね。・・・こっちでは、場麻風羅(ばあさふうら)って呼ばれてる」
そう言うと、風羅は茜に右手を差し出した。
「本当、辛いけど、輝器があればヴァンドは大した脅威じゃないから、頑張ってね。それに・・・」
そこで言葉を切った風羅に、茜は首を傾げた。
「あなたは、私が守るから」
「え・・・?」
思いもかけない言葉に茜が驚くのを見た風羅は、顔を赤く染めて視線を逸らした。
「勘違いしないでよね。私のことを思い出さないまま死なれてほしくないだけなんだから」
「・・・うん」
笑顔を浮かべた茜は、風羅の手を強く握り返した。

                             続く