natural〜あの日の気持ちはこんなのでしたよ〜
ほんの一ヶ月前の自分は、想像すらしなかった。できなかった。
「実感がない」といって、友達と笑った。
実感したくなかった。
学校最後のイベントが終わり、長い休みに入った。そして、この休みが終われば、学校に行くのも最後。
卒業式。
実感したくなかった。
この休みが終われば、また今までと同じように、共に過ごす日々が始まる。
いつものように起き、体に馴染んだお気に入りの制服に袖を通し、いつもの時間に家を出て、見慣れた風景を歩く。
いつもと変わらない、駅の人だかり、定食屋から漂ってくる香り。いつも会う、違う学校の生徒。
同じ制服に身を包んだ、人の流れ。その中を、いつもと同じペースで歩く。
3年間通い続けた、見慣れた道。
その終着点は、これも飽きるほどに見慣れた校舎。
3年前、初めて見たときには大きく見えた校舎も、今はそれほどではない。
迎えてくれるのは、春になれば、それこそ絵に描いたように美しく咲き誇る、学校の桜並木。
その下を、同じ制服に身を包んだ人の流れが行く。
その中を、いつもと同じペースで歩く。
ガタがきている、くたびれた扉を開ければ、そこには見慣れたいくつもの顔。
ほんの3年前までは全く知らない者同士だったなどとは思えないほど、壁のない空気が迎えてくれる。
たった3年間だったとは思えないほどに、色々な感情を共有しあった者。
同じメンバーで、同じ教室で、終わりの見えない課題に苦戦し、忘れてきた宿題を写しあい、テストの結果を見て泣き、あるいは笑い、昼休みには誰かの机の周りに集まり、談笑する。
いつもの奴がボケて、いつもの奴に突っ込みを入れられ、周りが失笑する。あまりにも心地よい日常。
「今日も居残り?」
「まだ終わってへんのか」
その日の授業が終わっても、すんなり帰れる日は少ない。放課後も、いつものように課題に終われる日々が始まる。
「じゃ、俺も残ろうかな」
課題で残る奴がいても、いつも皆が一緒に居座り、手伝う名義でちょっかいを出す。
帰りには、いつものメンバーで、いつものコース。
「ほんじゃ、また明日」と言って、手を振り別れる、お決まりのパターン。
「また明日」
そう。また明日がある。今までそうやってきた。これからだってそうだ。
明日も、明後日も、来週も。
終りがあることなど、考えもしなかった。
「昨日のアレ観た?」
「誰かソイツ止めろw」
「あの課題、訳分からんよな〜」
「弁当どこで食う?」
「帰りコンビニ寄るやろ」
「早よ着替えな授業始まるで」
「食堂寄っていこうな」
頭ではなく耳と目で覚えている、台詞と声色。
そんな日常が、また始まる。
忙しくて、面倒くさくて、楽しくて、心地良い。
そんな、今までどおりの日常が。
何の疑いもなく、そんな気がしていた。
それがまるで常識であるかのように。
しかし、止まることも、伸びることもない、人が作った『時間』という尺は、残酷なほど正確に、当たり前に、時を紡いでいる。
それは、いちばん実感したくないことだった。
処分できてない教科書とノート、プリントの山が、未だに机の大部分を占領し続けていた。
2006/3/4
眠れる気がしなかった。
眠りたくなかった。
ただ、高校生でいられる自分を少しでも長く実感したくて、眠りに就くのが嫌だった。
明日は、いや、日付が変わったから、もう今日だ。あと半日もしないうちには、卒業式の予行演習も終わっているだろう。
パソコンには、iPodの編集画面。
高校生活最後を飾る、最高の曲を集めた、最高のプレイリストを作っていた。
曲名を見るたびに思い出すフレーズと、その時に見た景色。
曲を再生するだけで、その時自分が見たもの、聞こえたもの、感じたもの全てが、驚くほど鮮やかに甦ってくる。
この3年間は、ほぼMDに頼りっきりだった。
入学してから作ったMDは、6〜7枚になった。
今では時代遅れとなった懐かしい曲を聴くたびに、それぞれの場面が甦る。
最初の1枚目を聞くと、まだ通学路を覚えたばかりで、友人、先生、校舎、授業、そのほか全てが新鮮で、慣れなくて、新しいことばかりの環境に飛び込んだ時の感情が、簡単に思い出せる。
「あの時はこんなことに夢中やったんか」
「あ、そういえばあんなこともあったな。この曲を聴いてた頃やったんか」
思いのほか昔だったり、思いのほか最近だったり。
そして、この3年間が、いかに充実したものだったかを、今更になって思い知らされる。
3年間同じ事をしてきたつもりなのに、そこに、同じ思いではひとつもない。
進んでいたのだ。
止まることなど、一度も無かった。
なにかにつまずいても、とどまることはなかった。
同じ行事が3度巡る中で、俺達は、進んでいた。
ずっと、同じ仲間で。
そして、やっと気付いた。
だから、終わるのだ。
終わるのは、確かに俺達が進んできた証。
始まりがなければ、終わりなんて存在しない。
始まったから、終りがある。
それは、誇るべきものなのだ。
俺達が、出合って、いや、出会えて、一緒に進んできた証。
そのゴールの旗が今、高らかに掲げられている。
だが。
それを受け入れることが出来る人間は、自分を含め、おそらくこの世に存在しない。
終わりたくない。終わらせたくない。
一緒にいたい。離れたくない。
叫びたい。
訴えたい。
泣きたい。
泣きたくない。
誰かに言いたかった。
受け入れて欲しかった。
でも、誰にも言えない。
言って変えられる事ならば、声が枯れるまで叫び続けることだろう。
言っても何も変わらない事など、初めからわかっているつもりだったのに。
・・・寝よう。
まだ、明日は来る。
自分には、「まだ」安らげる場所がある。
楽しみ尽くすのだ。最後の最後まで。
自分の愛した、制服と、慌ただしい朝は、「まだ」終わっていない。
『想い出はいつも甘い逃げ場所
だけど断ち切れ 明日を生きるため
祝福の時は来る 手を伸ばして・・・』
不意に、何度となく励まされたフレーズが、頭をよぎった。
2006/3/7
終わりは、予想以上にあっけないものだった。
何故そう感じたのか、分からなかった。
卒業生として名前を呼ばれ、盛大な拍手の中、見送られた。
卒業アルバムに、寄せ書きをした。
最後に、皆のカメラで何枚も、何枚も集合写真を撮った。
心のどこかに巣食っていたはずの、『これが最後』という言葉も、なぜか出てこなかった。
卒業して数日経った今も、変わらない。
やはり、また始まるような、そんな気がしていた。
しかし、机の上には、確かに卒業証書を収めた黒い筒と、アルバムが置かれていた。
アルバムを手に取り、ページをめくる。
どこを見ても、そこには笑顔ばかり。
あの日のこと、あの時のこと、いつ撮られたのか分からないような写真もある。
そのどれもが、この3年間を記録した、大切な一枚。
だが、足りなかった。
この3年間の全てを収めるには、このアルバムでは、あまりにも薄く、小さかった。
これだけの写真では収まりきらないほどの思い出が、もっとあの時、あの場所で、あいつらと。
そして、分かった。
卒業の日、どこか穏やかで、泣きもしなかった理由が。
悲しくなかったからだ。
寂しい。とても寂しい。でも、悲しくない。悲しむ理由など、何もない。
だから、泣かない。
アルバムを見ながら、母親が言った。
この学校の生徒は皆、強すぎるほどの個性を持っている。
そしてその全員がそれを理解し、互いに理解しあい、それを認め合っている、と。
「互いを認めあおう」
「違いを理解しあおう」
それは、小学校、中学校で、決まり文句のように、機械的に発せられ続けてきた言葉。
綺麗事。理想。教育上必要なことだから、子供に言って聞かせよう。
そんな教科書的な本心が容易く覗ける、そんな言葉として認識してきた言葉だった。
それが、この学校には、当たり前のように、あった。
その時初めて、この3年間の心地よさの理由が分かった。
自分の存在を認め、理解してくれた。
確かに、自分の場所があった。
―会いたい。
―帰りたい。
―戻りたい。
そして、それが既に思い出になってしまったということを悟った時、初めて涙が頬を伝った。
2006/3/9
『遠回りも近道もしないで僕らは
明日に何があるかより 今が一番大事で
誰かを痛いほどに好きになって 傷付いたり寂しさを分け合ったり
あの時の手の中のびいだまから見えたものは 夕焼けみたいな優しい色した 当たり前の僕らの日々
そこから覗いていた時間が 大したものは無くたって輝いていたんだ
今この手の中にあるびいだまから見えるものは少し違うけど 僕らの傍で小さく光ってる・・・』